東洋史を専攻している友人と話していると思うことがある。
現在の私たちが依拠し、当然としながら生活している『価値観』が実は砂上の楼閣に過ぎないのではないかと。
価値観はもっと多様で、どうしようもなくて、分かりにくいものなのではないかと。
近代という時代の本質は、科学による合理化だ。
科学の進歩による進歩と合理化こそが、現在の私たちを形作ってきた。
しかしそれは、あくまでも近代の話でしかない。
近代以前は、違う物理法則はなかったものの違う価値観があった。
そして人々の認識上においては、物理法則よりも価値観が先行していたのである。
これは現代にも当てはまる。
自分が使っているスマートフォンが何故機能するのかを知らない人々が大多数を占める現代では、身の回りにある物理法則を凡て知っている人など滅多にいない。
そうすると我々は、物理法則というある種のイデア(イデアで無いかもしれないが)を価値観というプリズムを通して見ているということになる。
これがまた厄介なのだ。
有史以来、我々の脳は思考を続けてきた。
そして思考の下敷きになるのが、その人にとっての価値観なのである。
つまり我々は、どんなに頑張っても世界をありのままに見ることが出来ない。
考えなければイデアを分析できないのに、考えるという行為そのものは価値観というプリズムを通して行われるためイデアとは離れたものしか見れないという矛盾。
だからこそ、我々は自己の価値観をも疑わなければならないのだ。
価値観はイデアを遠ざける。そして価値観は、必ずしも同一では無い。
さらに私たちは、最終的に価値観からは逃げられない。
なれば。
価値観を疑い、価値観を知り、価値観を適応させていくことが必要なのだ。
それを行ってこそ、我々は洞窟から抜け出せるのだから。
というわけで。
今日は人生の中で殆ど話したことが無いようなタイプの人と話してくる。
自分という価値観を知るには、自分以外の価値観を知ることが一番てっとり早いし。
うだうだ書いてきたが、やはり人の事を知るのは楽しい事だ。
まあ地雷を踏まないようにするのは大変だし、そこからどう仲良くなるかについては難しいのだけれど。
しかしそれくらいの山はあっていいだろう。
だってそれが交流なのだから。
それではまた。