思うところがあったので書きなぐる。
私たちの社会は、いや、現代に至るまでの文明はあらゆる意味で性善説に依拠している。
それは人が複数存在しているがゆえの必然だ。
万人が社会のシステムを維持し守るようにこの世はなっているのだ。
そしてその意識を形成する根底は人格形成にほかならない。
近代社会は、本質的に教育を重視する。
それは国力増加という意味もあるが、社会を維持するための普遍的なルールを教導するためだからだ。
国家は外からの暴力に対して対応を行うが、うちなる暴力については暴力と教育をもって対処する。
何を教育するかって?
社会にとって善であることだ。
これは何も社会システムに都合よく動けというようなことだけではない。
社会のシステムを暴力によって破壊することが許されないと教えるのだ。
そうして育った人々が社会を回す。
では。
その前提が崩れたら我々はどうすればいいのか。
私の隣人が、社会の何かを暴力を用いてどうこうしようとする存在ではないと信じられなければ、私たちの社会は十全に回るのか。
我々は信じたくないのだ。
世の中全ての人が善によって動いているのではないということを。
私も信じたくない。
しかし、現実としてそれはある。
他人を暴力を用いて害することができる存在がいる。
社会において暴力を行使できる存在は存在する。
それが何よりも恐ろしい。
善意に寄って成り立つ社会は、一滴の悪意に掻き乱される。
もしかすると、私が生きるこの世は、砂上の楼閣如く脆いものなのではないか...
そう考えてしまった今日であった。
それではまた。
- 作者: オスカー・ブルニフィエ,重松清,アンヌ・エムステージュ,西宮かおり
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