言葉の通りである。
一部の人間やネット社会では、「それ」ができて当然、できなければ問題ありのような文面を見かけることがある。
なぜかそれが私を苦しめるのだ。
そんなもの気にしなければいいのだろう。
しかし、それに傷つくということは私の内心が多かれ少なかれその意見に同意しているということなのだ。
今まで全く気にしなかったのに。
気にしないでも生きて来れたのに。
大学生になり、少し視野が広がったせいだろうか。
新しいモノを知った。新しい世界を知った。以前より人と交流するようになった。
しかし、しかし、「私」が。
「私」が傷つくのが怖い。私の良さが失われるのが怖い。
変なプライドが私に向かってくる。
だがこのプライドは私そのものなのだ。
たとえ愚かと言われようが、七十億人が変えた方がいいと言おうが、私には譲れない部分がある。
折り合いを付けた方がよりよい人生を送れるのだろう。
けれど、まずは自分で最善を考えよう。
誰かが言っていたなんてことこそ、自分で吟味しなければならないのだから。
自分の軸を。
自分の生き方を。
そうやって強く生きていきたい。
そう思った今日であった。
それではまた。
キリスト教は「宗教」ではない - 自由・平等・博愛の起源と普遍化への系譜 (中公新書ラクレ)
- 作者: 竹下節子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2017/10/05
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (1件) を見る