紅葉の映える日々。

Life is too short to drink bad sake.

それでもやはり教育は必要なのだ。

 

いきなりだが、今回はこの記事を読んだ感想である。

diamond.jp

 

昨日の記事↓

momiji-sake.hatenablog.com

 から分かるように、私は学ぶことが好きな人間である。そして学校には大変お世話になった。あの小学校生活には戻りたくないが、小学校で学んだことと読んだ本が私を形作ったことから私は学校教育に好意的なのである。

現代教育は私のような人間は救ってくれる。しかし勉強が好きではない、勉強できる環境にない、勉強に理解がないといった背景を抱える人たちを救ってはくれないし、むしろ「勉強」という言葉のもと傷つけている。

 

しかし、それでも、義務教育は必要なのだと考える。仮に義務教育がある世界とない世界を仮定したとする。親が勉強に対して理解がない場合、最低限の義務教育を終えて進路を選ぶかそれすら見ずに学校を知らず別の世界へ飛び込むではどちらがいいのか。

私は前者だと思っている。たとえどれほど当人の周囲が勉強に対し配慮のない環境であろうとも、いやそうであればあるこそ、教育という視点は提供されるべきなのだ。学ぶ・学べるという意思を提供する存在として、学校が持つ教育はやはり必要なのである。

よりわかりやすくいうのであれば、教育は「選択肢」を提示できるものなのだ。もしそれができておらず、学び良い学校にはいることだけが良い人生の方向だと説くのなら、それは間違っている。しかし学ぶことのメリットや働くことのメリットを双方論じ、また政治や経済、言語、数学といった生きていくため、視野を広げるための学問を提供できるのであれば、教育はこれ以上ない存在となる。

 

教育は確かに一部の格差を拡大させるかもしれない。しかし、私は現代の教育、とりわけ義務教育は格差の緩和に貢献していると考えいている。嘘だと思うのなら、戦前の義務教育を6年にしてそれ以降を細分化した学制と比較すればいい。早期の義務教育終了と進路の細分化は、技能のミスマッチを発生させにくくする一方社会的階層を固定化する作用があったのだから。

 

近代社会において成立し社会の水準を間違いなく高めた義務教育は、必ずしも完璧なわけではない。しかし、そこから漏れた人には別口のフォローが必要なのであって、義務教育が持つ「学問の提供による選択肢の提示」による格差緩和効果は残るべきだろう。それができていないのなら、義務教育というシステムそのものが悪いのではなく、義務教育で教えている内容に問題があるということだろうから。

 

書きたいことは存分に書けた。しかしこれは義務教育を肯定的に考えながら育ってきた一個人の意見である。故に異なる意見があれば是非教えていただけると幸いである。また途中一部支離滅裂になっているかもしれないが、そこは許して欲しい。

それではまた。