紅葉の映える日々。

Life is too short to drink bad sake.

大学という場所と個人。

f:id:momiji-sake:20190207212129j:plain

↑以前食べたお好み焼き。豚玉もいいが今度はキムチを食べてみたい。

 

今回は個人と大学についてのお話である。しかも自分にとって顔も知らない存在ではなく、日々接している隣人という個人についてである。

 

例えばゼミの発表があったとしよう。ここにおいて仕事が割り振られ、期限が設定される。それまでに我々は仕事をこなし、打ち合わせに備える必要がある。講義であればそれを聞き勉強する必要がある。

 

この段階において、要領の良い人というのが存在する。彼等彼女らは最小限の努力を持って最小限もしくはそこそこの成果を出し、卒業していく。先生方もこういうひとについてはあまり心配していない。社会に出ても荒波をかき分けながら生きていける人だからだ。

真面目に仕事をこなしていく人も存在する。こういった人々は時たまぽっきりと折れてしまうこともあるが、基本的に努力の方向を間違えない限り社会においてもなんとかなる。なので先生方は本質的な基軸が存在するかを見極め、対応していく。

さてここで困るのが要領の悪い人もしくは仕事をしない人たちである。彼等彼女らは努力の姿勢を見せようとして空回りするか、そもそも好きなこと以外の努力をしようとしない。こういった人々はグループワークにおいて非常に不利となる。なんだかんだいって社会で重視されることは協調性であり、他者との「適切な」コミュニケーションだからだ。

 

大学においては、この三種類の個人は基本的によっぽどの問題を起こさなければ大学に許容される。大学は懐が広い場所なのだ。寧ろ一部問題がありながらもそれを学問のために許容し、抱擁することが大学の本質なのではないかとも思う。

だが大学と社会は違う。象牙の塔新自由主義及び資本主義は相容れることはない。両者が対立すれば、どちらかがどちらかを服従させる結末となるだろう。まあ世間の大学は後者に寄りはじめているのだけれど。

さて寄りはじめてはいるは今なお自由な空間である大学と社会では、個人の本質は変化せずとも振る舞いを変える必要が存在してくる。それは大学と社会が、重なり合う部分はあるものの異なっている部分もあるからに他ならない。

個人としての私は、それを理解しなければならない。大学での振る舞いは、必ずしも社会で同様に理解されるわけではないのだと。学部生と院生は異なり、院生と教員は異なるのだと。

 

それに気づかないで生きていける人は幸せであろう。しかしいつか気づかされる日が来るのだ。それは早ければ早いほうがよい。なぜなら遅いと、何にもなれていない自分しか残らないから。

我々は成長しながら生きていかねばならない。

それではまた。

 

 

 

お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史

お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史

 
お好み焼き90%たこ焼き10%の本

お好み焼き90%たこ焼き10%の本

  • 作者: プレジデント社
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2017/03/24
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
  • この商品を含むブログを見る