紅葉の映える日々。

Life is too short to drink bad sake.

他者の話をしよう。

他者とは何であろうか。

それは自分以外の全てである。肉親、家族、恋人、友人、知り合い、見知らぬ人。全てが他者なのだ。

何かの本で読んだが、自分にとって他者は自己の認識に拠ってしか認識できない存在であるため、本質的に主観に依らなければある程度理解できない存在であるとのこと。他者は中立的存在としては、この世に-より正確に言うのであれば自己の認識という一つの世界内に-存立できないのである。我々は自分と全く異なる存在としての、どうあっても完全に理解することが難しい他者を周囲に置きながら生きている。

他者は私の味方でもあり、敵でもある。それを分ける基準は自己の主観であり、自分こそが他者を構築する。自分にとってのそれ以外の人間は他者であり、自分という認識においては自己が存在するが故に他者が存在しているのだ。

自分にとって他者は本質的にはもの言わぬ存在であり、自分が他者を認識しものを自分の意志によって聞き取ったときに、我々は初めて他者を「認知」する。これが出会いだ。自分と他者の、相手にとっても自分と他者の。自分が自分以外を他者と認識しているように、自分以外の存在も全てそれ以外を他者と認識している。

では認知された他者が、自分にとって「理解」されるにはいったい何が必要なのか。

それこそが、相互理解である。相互理解は他者を「理解」することであり、自分の認識世界に他者を明確な形で存在させる方法なのだ。しかしこの理解は、必ずしも相互関係が良好にあることを意味しない。互いが互いを忌み嫌うことも、一種の相互理解なのだ。それは両者が自身の世界においては、相手という他者を「嫌いな存在」として認識し形を形成したからに他ならない。親愛も、恋慕も、嫌悪も、嫉妬も、競争も、両者が同様に相手を意識しているのであれば相互理解なのだ。

少々矛盾しているかもしれないが、人は他者を認識することで「理解」する。しかし、理解という行為が自身において成されるには他者からの理解が必要なのだ。我々はそれぞれの自己を持ち生きているが、自己に他者を存在させるには他者からの「理解」という承認が必要なのである。

さてここまで色々と書いてきたが、結論を述べよう。

我々という自己は、他者の理解をもって他者を自己の内に形成することが初めて可能になるのだ

故に貴方が他者を理解したいのならば、他者と親交を結びたいのであれば、貴方は他者に認識されなければならない。そこから理解が始まり、相互理解に行き着くのである。

 

最後になるが、今回は私が好きな作品のにおける主人公の言葉を引用して終わりにする。この一言は、自己と他者の関係をわかりやすく提示していると思うのだ。

「さあ、……理解し合おうではないか

                  『終わりのクロニクル』佐山・御言

 

それではまた。

 

実存から実存者へ (講談社学術文庫)

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